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高井家のルーツ

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年6月10日更新

高井家のルーツから華やかで多彩な生涯

高井鴻山肖像高井鴻山(文化3~明治16年/1806~1883)

鴻山は、幕末維新の激動期に、その時局の変化に対応しつつ、陽明学(儒学の一派)の教え「知行合一」の精神で“国利民福”の信条をつらぬいた人である。
15歳から16年にわたり、京都や江戸へ遊学し、各界第一人者から多彩な学問や芸術を修めた。自由で幅広い人脈を築いた鴻山は、父の死により高井家の当主となってからも、学問芸術に情熱を傾けた。佐久間象山をはじめ当時の日本史を彩った思想家や文人たちと交流し、日本の行く末を憂い、巨万の財力を惜しみなく使い幕末の変革に関わった。
 また、江戸の浮世絵師葛飾北斎をはじめ多くの文人墨客を招き、小布施を文化の香り高い地に育んだ。飢餓には窮民を救い、維新後は教育立県を強調し、東京や長野に私塾を開いて教育活動に専念した。

高井家

高井家は、元和年間(1615~24)に浅間山麓の市村より移住したといわれる。その後、六斎市での商売などを通じて北信濃きっての豪農商となり、飯山藩や京都・九条家などの御用達を勤め、小布施を拠点に、信州はもとより江戸、京阪、北陸、瀬戸内までも商圏として手広く商いをした。飢饉の際は、代々築いてきた巨万の財を惜しみなく困窮者の救済に当てている。
鴻山の祖父は、天明の大飢餓に倉を開き窮民を救ったので、その功績が幕府に認められ「高井」の名字と帯刀を許された。
このように高井家は、大事業家であると共に、慈善家としての家風も受け継ぎ、庶民のリーダーとして社会に深く関わった。この家風が、鴻山の生き方の根底になったといえる。

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