ページの先頭です。 メニューを飛ばして本文へ

所蔵品

印刷用ページを表示する 掲載日:2012年6月10日更新

北斎と鴻山 ふたりをめぐる人間模様

菊図天保13年(1842)秋、江戸遊学時代に交遊のあった画家・葛飾北斎(宝暦10年~嘉永2年/1760~1849)が、鴻山を訪ねて小布施へやって来た。80歳を超えた老画家が、はるばる小布施を訪れた理由には諸説ある。最も妥当なのは、天保の改革の過激な取り締まりを避け、北斎芸術のよき理解者であり、経済的な支援者としても頼もしい鴻山のもとへ、身を寄せたとの見方であろう。北斎はその後再三にわたって来訪し、鴻山が提供した「碧漪軒」をアトリエにして、数々の肉筆画の傑作や鴻山との合作を残した。鴻山は北斎を師と仰いで尊敬し、北斎は鴻山を「旦那様」と呼ぶ、折り目ある交流が続いたと伝えられている。

四曲屏風「象と唐人図」は北斎の下絵をもとに鴻山が描き上げた傑作。北斎の小布施滞在によって実現した作品のひとつである。

象と唐人図屏風   

  

 

鴻山の妖怪画 晩年は妖怪画に没頭

妖怪山水図晩年の鴻山は、妖怪画を多く描くようになった。若い頃から岸派や浮世絵の第一人者を師匠とし、数々の画を描き続けてきた鴻山が、妖怪画に没頭したのはなぜか。残された漢詩などから、鴻山の心の中には政情や自らの境遇、そして志半ばで夭折した者たちへの深い思いなどが複雑に交錯していた様子が窺える。彼はそれをのりこえ、さらに宗教的な有霊感を加え“万物の魂”を描こうとしたのではないかと推測される。花鳥画、人物画、山水画をすべて吸収して集大成された鴻山独特の妖怪画の世界は、見る者に深い感動を与える。

  

 

 

 

鴻山と書 独自の書風を築く

偶作、永江神社(中野市)の旗鴻山が揮毫(きごう)した幟旗は多く、北信濃の各地で30数対が確認されている。教育者であった晩年の揮毫で、鴻山が、地域の人々の信望を集めていた様子がうかがえる。幕末三筆のひとりといわれた貫名海屋(ぬきなかいおく)に学び、活文禅師や佐久間象山らの影響を受けて確立した書風は、剛胆で気迫に満ちている。
 

意見をお聞かせください

お求めの情報が十分掲載されていましたか?
ページの構成や内容、表現は分かりやすいものでしたか?
この情報をすぐに見つけることができましたか?
※いただいたご意見は、より分かりやすく役に立つホームページとするために参考にさせていただきますので、ご協力をお願いします。