現代のまちづくり

 

明治維新以降、衰退の歴史をたどる中でも、新進の気風を忘れず、新しい挑戦を続けてきた小布施ですが、第二次世界大戦後には急激な人口減少を経験します。

「何もない町」から年間100万人が訪れる町への変貌の過程には何があったのでしょうか。戦後から今に連なる「現代の小布施のまちづくり」を紐解きます。

 

 

戦後の人口減少とまちづくりの芽生え

1954年に小布施村と都住村が合併し、現在の小布施町が誕生します。

第二次世界大戦後、町内ではりんご栽培が急速に広がるとともに、経営の共同化と規模の拡大がいち早く進み、1956年には長野県下一の生産額を誇る「りんごの町」となりました。

しかし、その隆盛もりんご不況などの影響で1960年代後半には落ち着き、次第に専業農家が減少していきます。

また、高度経済成長の到来による都市部への人口流出により、1950年には1万1000人近くだった小布施町の人口は、1970年に9625人まで減少。人口減少・過疎が進む中で、町の経営も厳しい状況に陥ります。

そのような危機の中で、1969年に町長に就任した市村郁夫氏は、まちづくりの基本的な方向性として「文化立町」と「農業立町」を宣言。当時できたばかりの都市計画法を活用し、都市地域と農村地域を明確に区分した都市計画区域の指定を行うとともに、小布施町開発公社による宅地造成と分譲を積極的に行いました。その結果、1972年には町の人口が1万人に回復し、過疎からの脱却が図られたのです。

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北斎館の建設と来訪者の増加

町開発公社による宅地分譲は、若い世代の人口流入とともに、まちづくりの原資となる新たな余剰金を生み出しました。

1976年、その資金を活用して「北斎館」が建設されます。晩年に小布施で多くの作品を残した葛飾北斎ですが、1960年にはウィーンで開催された世界平和評議会の席上において世界の文化巨匠として顕彰され、1966年にはソ連プーシキン美術館などで「葛飾北斎展」が開かれるなど、世界的な評価を確立しつつありました。一方で、町内に残る北斎作品の研究や保全は大きな課題となっていました。そうした状況の中で設立されたのが、北斎館だったのです。

北斎館が開館すると、地方の小さな町にできたこの美術館の存在が全国的な話題となり、初年度に3万4000人の来場者を数えるなど、町に多くの来訪者が訪れるようになります。

また、来訪者が増える中で、栗菓子屋などの民間企業が中心となり、レストランや商店が次々と開業するなど、来訪者を受け入れる新しいまちづくりが急速に進んでいきました。

 

町並修景事業と景観意識の高まり

1980年代には、高井鴻山記念館や小布施堂周辺の敷地を中心に、行政を含む6地権者による「町並修景事業」が始まり、「栗の小径」など、現在の小布施町を象徴する空間の一つが形成されていきます。

古いものを生かしながら現代の生活にあった暮らしを実現する、住む人・訪れる人が心地よく過ごせる町並み空間が形成されることで、町民の景観に対する意識が高まり、「内は自分のもの、外はみんなのもの」のコンセプトが、小布施町全体に浸透していったのです。

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行政と住民の協働による「うるおいのあるまちづくり」

1990年には「うるおいのある美しいまちづくり条例」が制定され、町役場も景観まちづくりや豊かな生活文化づくりの動きをバックアップしていきます。1992年には、当時の唐沢彦三町長のもと「フローラルガーデンおぶせ」がオープン。「ヨーロッパ花のまちづくり研修」などの人材育成事業と合わせて、花のまちづくりが積極的に推進されるようになりました。

このような動きが2000年から始まる「おぶせオープンガーデン」につながり、現在では130軒を超える民家などの庭が、来訪者に開放されています。

 

住民・企業がリードする新しい魅力創出

町並修景事業などを通じて官民協働が当たり前になる中で、住民や民間企業発のまちづくりの動きも活発化します。

1993年、当時の商工会地域振興部が中心となり、まちづくり会社「ア・ラ・小布施」が設立されます。当時は珍しかったホテル事業やカフェ事業など、地域にないものは自分たちでつくるという精神のもと、住民主体のまちづくり活動が進みます。

2003年には、「海のない町に人の波をつくる」をコンセプトに、町中のオンとオフの道を楽しむ「小布施見にマラソン」がスタート。現在では県内外から毎年約8000人のランナーが参加し、新しい小布施ファンを生み出す事業となっています。

 

自立宣言と「協働と交流のまちづくり」

住民と行政によるそれぞれの強みを生かしたまちづくりが進む中で、2000年頃から、全国で「平成の大合併」と呼ばれる市町村合併に向けた動きが活発化します。

2004年、これからの自治をともに考えるシンポジウムで「小布施町・自立に向けた将来ビジョン」が発表され、その翌年町長に就任した市村良三町長により、周辺自治体との合併を選択しない「自立宣言」が出されました。

市村町政では、行政の自立経営に向けた財政健全化と行政改革に着手するとともに、これまでのまちづくりの経験を生かし、「協働と交流のまちづくり」を旗印とした「4つ(町民、地場企業、大学や研究機関、町外の志ある企業)の協働」と「交流産業」の創造が進められます。

 

4つの協働の推進

2008年、町民との協働をさらに一歩進める仕組みとして「小布施まちづくり委員会」が発足。町民が自由にテーマを設定して部会を開き、新しいまちづくりに対する提案や実践を行う場として生かされています。

2009年に開館した町立図書館「まちとしょテラソ」でも、2年以上にわたる町民参加の議論のもと図書館運営のコンセプトが形作られました。2011年にはそのデザインや運営が評価され、「ライブラリーオブザイヤー」を受賞し、注目を集めました。

大学や研究機関との協働では、2005年より東京理科大学との協働がスタート。「東京理科大学・小布施町まちづくり研究所」が役場内に開設されます。日本の官学協働の先行事例となったこの研究所では小布施の風土やまちづくりに関する数々の研究が生まれ、その後の信州大学や法政大学との協働、さらには現在の東京大学先端科学技術センター、慶應SDM・SFCとの協働につながっています。

 

新しい時代のまちづくりへ

現在の小布施町は、これまでの4つの協働を大切にしながら、新たな協働のあり方やまちづくりのビジョンを模索しています。特に、次の時代のまちづくりを担う世代の育成と応援は、町がつないできたまちづくりの火を維持・活性化していく上で大きな課題です。

また、人口減少や少子高齢化が急速に進む中、町民だけでなく、町外の応援者と一緒にまちづくりを進めていくことや、これまで行政が担ってきた役割を見直し、より多様な協働を生み出していくことも求められています。気候変動や災害の大規模化など、地球レベルの視点を見据えた取り組みの推進も不可欠になっています。

そのような問題意識のもと、町では2012年から2018年まで「小布施若者会議」を開催し、小布施町内外の若者による新しいまちづくりや事業創造、行政の協働の動きを応援してきました。その結果、小布施若者会議をきっかけとした新しい行政施策や事業が町内外で生まれるとともに、若者会議の仕組みや活動が全国に広がる中で、若い世代における小布施の認知度向上に貢献しています。

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小布施若者会議と同時期に開催された「小布施エネルギー会議」では、町内における自然エネルギーの利活用に関する研究や議論が進み、その動きは2018年の「小布施松川小水力発電所」の建設につながっています。

2019年からは隣接する長野市やフィンランドのトゥルク市と協働し、環境と経済が両立する新しいまちづくりの推進に向けた動きが生まれつつあります。

スポーツを切り口とした取り組みも数多く生まれています。2007年には、スケートボード施設「アイアンクロウビレッジ」がオープン。その後もスノーボードやスキーのジャンプ施設「小布施キングス(現クエスト)」のオープンや浄光寺の「スラックラインパーク」、町の公共施設を活用したボルダリング 施設「小布施オープンオアシス」などが相次ぎ、若い世代の新しい感性による事業が生まれ、スポーツの町としての存在感を高めています。

 

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